豊かさの作り方

Uターン移住
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時間に追われる都会暮らし×デジタルデトックス=心の豊かさ
時間のゆとりはある田舎暮らし×お宝デトックス=お金の豊かさ?
始まりは、1本の営業のお電話でした。

「このおうちは絶対になにかありますよ…!」

実は、前回のブログを書いているときに1本の営業のお電話をいただきまして。

「はい、もしもし〇〇です」
「あ、お忙しいところ申し訳ありません!こちら買取業者の△△といいますが、
ご不用品の買取などがあれば…!」

という、なんともタイムリーでかつもしかするとお小遣いになるかもしれない。
私からすれば一石二鳥以上にうれしいお電話があり、さっそくお願いすることに。
こちらも前回のブログで書きましたが、当面は18年間住んだ1Kのアパートから実家に引き揚げてきた荷物の整理整頓が課題になっています。

「ひとまず持ってきたはいいものの特に必要なさそうなもの」や。
「今手放さなければいつ手放すか分からないもの」がいっぱいありました。

なので、お金にならなくてもいいからとりあえず大量の洋服を持って行ってほしい…!
わざわざこちらまで来てくれる人にとっては、不用品を押し付けられたようになるかもしれないと感じつつも…!
持って行ってくださるということなので、有難くご厚意に甘えに甘えまくると心に決め、約束の時間に家まで来ていただき。
引き取っていただきたい大量の荷物をこれ見よがしにずずいっと差し出すべく、
玄関のそばに積み上げた形で、さっそく「査定」に入っていただきました。

…ん?「査定」…?

要は、来てくださった方は「価値のあるもの、買い取らせていただきます!」ということで。
私が引き取っていただく気満々で準備していた大量の洋服と大量のマンガ本は、結果的に1円にもなりませんでした。((;´д`)トホホ)
正確には、買い取り額の中でどれくらいのお金になったか分からない、ということですね。

最初の電話ではマンガも大丈夫と言っていたのに…!
そんなことは業者様がお帰りになった後に思い出したのですが、
査定をしてくださっている最中は、どうしてかこちらがどきどき。
お金にならなそうなものばかりですみません…と、お呼び立てした罪悪感すら湧き上がってくるのです…!

私の「いらないものを引き取ってほしい…!」の思惑と。
業者様の「価値のあるものにお値段つけて引き取らせていただきます…!」の思惑は、絶妙に食い違っていたことに気づきました。

こちらも後から思ったのですが、営業の電話をする人と実際に買取に行く人は違いますよね。
だから…
営業の電話をする人は、私が質問したことに対して「なんでもできます…!」とおっしゃるわけです。
でも、実際に来られた業者様も持ち帰れるものにも限りがある感じでしたので。
私の中の「申し訳ない…!」の気持ちは買取のお兄さんを目の前にどんどん膨らんでいきました。
するとすかさず。
お兄さんはさすがにお仕事ですので、収穫なしにとんぼ返りするようなことはありません。

「…おねえさん、あちらは桐のたんすですか?」
「あの引き出しとか、大抵のお宅は何か眠っているんですよ…!」

と。
何とか私のポンコツ具合を払拭しようと、そこかしこにお宝の可能性を見出してくれるんです。
これは私としては非常に救われました。
罪悪感を上塗りできるのと同時に、普段通りに生活していたら気づかない「価値になるもの」を掘り当ててくれるのですから。
実家は古き良き時代よりも前に建てられた平屋なので、古物商の方からみるとお宝の宝庫のようでした、が。

(もし掘り出しものがあったとしても、私の一存で勝手に家のものを売り飛ばすのはどうなんだ…?)

と、人として当たり前の感情が蘇ってきて、もやもやと心に渦巻く罪悪感の影から、存在感バリバリに顔を覗かせてくれて本当に良かった。

「実はあっちにも普段開けてない箪笥があるんですよ」
なんて縦横無尽に家の中を案内してしまったら、バリバリ営業マンのお兄さんの情熱で引き出しの中身は余すことなく掘り返されてしまっていたでしょう。
さすがにそれは、プライバシー保護が叫ばれるインターネット時代に相応しくなさすぎる…!

あの、今度家に詳しいものがいる時に聞いてみます…!

とお兄さんのお宝サーチのアンテナの精度を何とか下げることに成功し。
その場は、私が使っていたけれど使わなくなった美容師時代のシザーを思い出して引っ張り出し、お値段をつけていただいて何とかお帰りいただきました。

せっかく来ていただいたのですから、私的にはwinwinにしたい。
それは是が非でもないのですが、なにせ「業者様的価値のあるもの」を私は持っていないので、心の中に生まれた「お金にならなくて申し訳ない…!」という気持ちは、最後までお兄さんの情熱を前にしても打ち砕かれることはありませんでした。

買取業者様的に「価値のあるもの」

お兄さんのギラリと光る目に入ったのは、先述した桐の箪笥らしいです。
…そういえば、昔の人は何でも引き出しにしまい込む癖がありそうだなと思いました。

引き出しの中に何が眠っていればお兄さん的にはうれしかったのか。
お話を要約すると、「金」ということで。
「かね」ではなく、「きん」。

ベルトのバックルや、お母さん世代、おばあちゃん世代が若い頃に身につけていたネックレスに、お祝いなどでいただく金杯、銀杯などだそうです。

あとは、時計や古いゲーム機、フィギュアなども良いみたいで。
頑張って私が手を出せる範囲で探してはみましたが、実家に舞い戻ったばかりの私にお金になる価値を持つお宝が探し当てられるほど、田舎の防犯意識は甘くありません。

生まれ育った家だけど、18年間離れている間にここで生活してきた家族がいるのだから、家の何もかもを把握していると思ってはいけなかったし…
(そうは思ってはいなかったんです、でも)
少しだけ箪笥の中を覗かせてもらうと。
そこには、大切そうに昔の新聞紙に包まれた食器やグラス、もう着ていないであろう洋服たちが沢山ありました。

使わなくなったであろうものも、着なくなった洋服も。
それは母や祖母にとっては「歴史」で、兄や私がこの家で成長した証のようにも思えて。
それと同時に、家族がここで暮らした証でもあって、私にとってはどれも価値あるものだから。
お兄さんには申し訳なかったですけど…
「金」(きん)としての価値はないかもしれないけれど、それ以上のプライスレスな価値に気付かせてくれて、お兄さん本当にありがとう。
…これって皮肉?嫌味みたいになっていたらすみません 泣
というよりは、「強がり」「負けず嫌い」?笑

豊かさの違い

東京にいる時は、手が届く範囲に何もかもがありました。
これは、物理的な意味でも、比喩的な意味でも。
1Kアパートの暮らしでは、当然のことながら全てのものが自分の手で運び込んだもの。
覚えがないものが存在しているときは、数少ないこの家に遊びに来た友人が忘れていったか、あるいは心配で掃除しに来てくれた母が置いていったものか。
いずれにしても、自ら招き入れた人か自分が持ち入れたものしか存在していないので、ほとんど全てのものが把握済み、了承済みで部屋の中にあるわけです。
新しく欲しいものがあればお店を検索して、休みの日にいそいそと出かけて購入できますし。
それこそインターネットでぽちっとすれば、今日明日中には手元に届けられるから、便利。
「望めば何もかもが手に入る場所」のイメージが大都会東京なので、
時々は、デジタルデトックスをして、あえて不便さの中に身を置くことが心の豊かさを取り戻す方法だったりもしました。
検索すれば、すぐに答えをくれて。
だからこそ、自分で考える時間の価値がどんどん高まるのに、時間を確保するのは難しい。
すぐにアンサーがもらえるから、どんどん時間の中に圧縮されていく情報と、その処理速度が試される都会の生活。
処理速度をクリアにしておくために、ミニマリストやデジタルデトックスが叫ばれているのかな。

一方、自然豊かな千葉での生活は、入ってくる情報の取捨選択が自由にできるからこそ。
手に入れておくべき情報を、自分の力で見極めて選んでいく力が必要なのだろうと思います。
どの情報を信じて、何に価値を置いて…それを自分の中に落とし込んで、いかに実践して、実行していくか。
何もかも自分で決められる自由は、ある意味で東京にいる時よりも怖さが伴うし、覚悟が必要でした。
今と同じ感覚・意識が、東京に住んでいた時にあったらなあと思います。
そうしたら、もう少し。
私が感じていた東京の窮屈さの中にも、溢れかえる情報があるからこその可能性と選択肢の中から、「自分らしく稼ぐ」に希望が持てていたかもしれません。
頭の中がキャパオーバーになっていて、上手にデトックスできないままフリーランスとしての生活が始まりました…ので。
自分が決めたこと。
自分で選んだこの場所で、何が何でも心とお金の豊かさを手にしてやる…!!

と、私らしくないひそかな情熱を、誰にもばれないようにひっそりと心の中で燃やしています。

P.S.
昨日のオンライン勉強会で、この先やるべき事の全てを提示してもらえました。
至れり尽くせりとはこのこと。
沢山の情報をくれるのと、インプットとアウトプットの機会をくれる。
ありがたいことです。
これも自分で選び取ったこと。
自分で決めたことだから、私の中で満点の価値と、少しのゆとりを持って取り組んでいこうとおもいます。

(ここまで書いたのに、まだ書きたいことがモクモクと浮かんできました。
まとまりがなくなって間延びしそうで、ここまでにします)

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